『ファイナルファンタジーIX』"永遠の闇"は、完璧なラストボスである

"永遠の闇"を倒すことは、それまでのすべてに意味を与える行為である

ライター /

重要なポイント

『ファイナルファンタジーIX』のラストボス"永遠の闇"は、突如現れる敵ではなく、物語全体に潜む"恐怖"や"虚無"の象徴です。死の意味と向き合うキャラクターたちの旅を締めくくる存在であり、生きる意志の力を問いかける役割を果たしています。


注意
本記事は物語展開のネタバレを含みます。

"永遠の闇"とは、RPG『ファイナルファンタジーⅨ』(以下『FF9』)に登場するキャラクター(ラストボス)である。

"永遠の闇"は、突如として現れるどんでん返しではない。彼こそが本質だ。彼は、ゲーム全体が静かに取り巻いてきた言葉にならない恐怖そのものである。

こう言うのだ--この世界が厳しいことはわかっている。この世界が終わることも知っている。それでも私は、生きることを選ぶ

だからこそ、"永遠の闇"は単に"最後にふさわしいボス"ではない。彼は、ビデオゲーム史上もっとも優れたラストボスのひとりなのだ。

クジャの先に待つ、真の絶望——"永遠の闇"が映す命の本質

クジャ――予感していたヴィラン

© SQUARE ENIX

『FF9』の物語の大半において、ヴィラン(悪役)は明らかに謎の青年・クジャである。華美で狡猾な彼は、アレクサンドリアのブラネ女王を操って戦争を引き起こし、最終的には自らが支配権を握る。その動機は野心から破壊へとエスカレートしていく。なぜなら彼は、自らが若くして死ぬよう設計された人工生命体であるという残酷な真実を知ってしまうからだ。死への恐怖と、自身の存在の無意味さに取り憑かれたクジャは、全宇宙を道連れに無へと引きずり込もうとする。

クジャとの壮絶な戦いに勝利したあと、パーティーはついに勝ったかに見える。しかしその直後、"永遠の闇"という名の新たな宇宙的存在が突如として現れる。クジャとは違い、"永遠の闇"はそれまで物語のなかで一度も言及されていない。

彼は自らを「"永遠の闇"」と名乗り、命は恐れと苦しみに根差し、最終的には無意味であると語る。彼の目的は、あらゆる存在を"ゼロの世界"――痛みのない無の状態――へと還すことだ。

初めて"永遠の闇"が登場したとき、多くのプレイヤーにとってそれは唐突な展開に思えた。当時のネット掲示板では、「なぜ最後のボスがクジャじゃないのか?」、「なぜ終盤に新しい脅威が出てくるのか?」という投稿で溢れていた。

だが、『FF9』の物語をよく知れば知るほど、"永遠の闇"の存在が理解できるようになる。単なるラスボスとしてではなく、物語のテーマを締めくくるうえで不可欠な存在として……。

"永遠の闇"が現れる……だが、なぜ?

永遠の闇が現れる……だが、なぜ?

© SQUARE ENIX

"永遠の闇"は、クジャがクリスタル――『FF9』の世界におけるあらゆる生命の根源――を破壊したあとに具現化する。パーティーが"絶望の丘"と呼ばれる空間に投げ込まれると、"永遠の闇"は、主人公のジタンに直接語りかけ、その絶望的な世界観を明かす。すべての生き物は死を恐れており、その恐怖こそがあらゆる苦しみの源である。このサイクルを終わらせる唯一の方法は、存在そのものを消し去ることだ、と。

だがパーティーは屈しない。ジタンたちは虚無主義を拒絶し、生きようとする意志を燃やして深淵から立ち上がる。そして、"永遠の闇"との超現実的な最終決戦に挑む。

ゲーム的には、この戦いは難易度が高い。"永遠の闇"は強力な攻撃や状態異常、そしてグランドクロスのような、パーティーにランダムで致命的な効果を与える呪文を使ってくる。しかし、本当の戦いは思想のぶつかり合いだ。"永遠の闇"は単なる宇宙的恐怖ではない。それは"絶望の具現"、ゲーム全体を通してキャラクターたちが向き合ってきた恐怖そのものの象徴なのだ。

死、意味、そして生きるための闘い--"永遠の闇"の物語における役割

死、意味、そして生きるための闘い:永遠の闇の物語における役割

© SQUARE ENIX

"永遠の闇"という名前こそ終盤まで登場しないが、彼の体現する哲学は『FF9』全体をとおして存在している。主要キャラクターたちはみんな、何らかの形で"恐怖"、"喪失"、"意味の崩壊"と向き合っている。

スタイナー(アレクサンドリアの女王ブラネに仕える騎士団の隊長)は、物語の冒頭では女王ブラネに盲目的に忠誠を誓う騎士として登場する。しかし、女王の残虐さが増していくにつれ、彼はそれまで信じていたすべてを疑わざるを得なくなる。そして最終的には、正義と仲間への忠誠という、より高い価値を選ぶ。

ガーネット(アレクサンドリア王国の王女)は母を救おうとするが、裏切りのなかでその母を目のまえで失う。その後、王国も滅び、彼女は精神的に打ちのめされ、言葉を失ってしまう。しかし、彼女は髪を切る――過去との決別を象徴する行動――ことで、自らの力を取り戻し、再建の道を歩み始める。

フライヤ(ブルメシア王国の女戦士)は長年、行方不明の恋人を探し続けていたが、ついに再会しても彼はフライヤのことを覚えていなかった。その拒絶に心が折れかけるが、彼女は他者を救う道に自らを捧げることを選ぶ。

これらのエピソードに共通しているのは、"魂の消滅"とも言える瞬間に直面することだ。信じていたもの、希望、愛するもの――すべてが壊れ、奪われる。彼らは絶望に屈することもできた。だが、そうはしなかった。彼らは生き続けることを選んだ

"永遠の闇"は、そのすべての絶望の集約体である。彼は、存在に対する恐怖という感情が純粋な形で結晶化した存在なのだ。彼の突然の登場は、ゲーム全体の主題そのものである。彼は最終試験であり、パーティーの答えは"生きる意志"なのだ。

クジャとビビ――死に対するふたつの反応

クジャとビビ――死に対する二つの反応

© SQUARE ENIX

『FF9』の中心テーマをもっとも明確に体現しているのが、クジャ(戦乱を起こさせる死神)とビビ(黒魔道士の子ども)というふたりのキャラクターだ。どちらも自らの命が人工的に制限されていることを知る。どちらも寿命が定められた、作られた存在だ。しかし、その反応は正反対となる。

クジャは、自分が死をまき散らすために設計された試作品にすぎず、いずれ忘れられて死ぬ運命にあると知る。彼は遺産に執着し、やがてはすべてを消し去ることに執着するようになる。自分の命に永遠の意味がないという考えに耐えられず、すべてを破壊しようとする。その姿は、"永遠の闇"の主張を証明するかのようである。

一方のビビは、自分が1年しか生きられないかもしれないと告げられる。彼もまた試作品であり、クジャと同様に戦争のために作られた存在だ。だが、絶望する代わりに、ビビはその限られた時間を受け入れる。ジタンや仲間たちの中に家族を見出し、黒魔道士と人間との平和を築き、さらには自らが作り出したレプリカの魔道士たちを残して死んでいく。彼の記憶と理想は、彼の死後も生き続ける。

ビビは死を否定しない。彼は死を受け入れながらも、意味を見出す。そして、ただ優しく生きることで、"永遠の闇"の否定を体現してみせるのだ。

なぜ"永遠の闇"はラストボスとして機能するのか?

なぜ永遠の闇はラストボスとして機能するのか

© SQUARE ENIX

"永遠の闇"は伝統的なヴィラン(悪役)ではないかもしれない。しかし、『FF9』を締めくくるには彼しかいない。ほとんどの『ファイナルファンタジー』シリーズのラストボスは、物語の延長線上にある存在だ。『FF7』のセフィロスクラウドの過去の具現化であり、『FF8』のアルティミシアは時間圧縮の頂点、『FF5』のエクスデスは文字どおり虚無が木に宿った存在だ。彼らは"力"、"復讐"、"運命"といったテーマを体現している。

だが、"永遠の闇"は主人公・ジタンにとっての個人的な存在ではない。彼は、私たち――プレイヤー自身にとっての個人的な存在なのだ。

彼は、すべてが無意味であるという普遍的な恐怖を象徴している。愛する人たちが死ぬということ。自分自身が死ぬということ。夢が意味を持たないかもしれないということ。虚無を見つめ続けたときに、こちらを見返してくるもの――それが"永遠の闇"だ。

"永遠の闇"を倒すという行為は、ただ物語を終わらせるだけではない。それまでのすべてに意味を与える行為でもある。絶望そのものに打ち勝つのだ。虚無主義に「ノー」と言うのだ。

『FF9』はファンタジーを越えて心に響く物語である

FFIXはファンタジーを越えて心に響く物語

『FF9』の開発者たちが語った実際のエピソードがある。ある中学生の少年が、彼らに手紙を書いたのだ。彼は自らの命を絶つことを考えていた。だが『FF9』をプレイするなかで、キャラクターたちが"生きるために闘う姿"を見た。苦しみながらも、なお想い合い、愛し、希望を持っていた。その登場人物たちの姿が少年の心を変えた。彼の命を救ったのだ。

この話には、大きな意味がある。『FF9』が単なる気まぐれな冒険譚でも、懐古的なJRPGでもないことを示している。それは中世の衣をまとった、深く人間的な物語であり、"どう生きるか"という切実なテーマを内に抱えている。闇から目を背けることはないが、それでも――頑固に、美しく――意味は見出せると信じている。

--たとえ死が避けられなくても。
--たとえ世界が壊れてしまっても。

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